『花束みたいな恋をした』を観て、「泣かなかった。でも切なかった」と感じた人は少なくないはずです。
「花束」——それは、美しい花の集合体。
もらったときは嬉しくて、花瓶に飾って、その彩りを愛でて楽しむ。
でも、どんなに大事にしていても、やがて花は枯れて、そっと処分されてしまう。
麦くんと絹ちゃんの恋は、まさにそんな“花束のような時間”だった。

麦君と絹ちゃん二人とも愛おしかったよね。

共感できることがすっごく多かったね!公式ホームページが素敵すぎるからリンクを張っておきます!
この記事では、感受性に富んだ二人、麦くんと絹ちゃんがその後どうなったのかをじっくり考察していきます。
絹ちゃんと麦くんが感じていた「孤独」と「疎外感」
絹ちゃんは、人生で一番つらかったとき、ある出来事を思い出すようにしていたそうです。
それは、2014年ブラジルワールドカップの準決勝。自国開催でありながら「7対1」でドイツに大敗したブラジル代表の姿。「彼らよりはマシ」と思うことで、自分の心の重荷を少し軽くしようとしていたんですね。

サッカー王国ブラジルが自国開催で7点も取られて負けるという国民から総バッシングを受けた悲劇です。
誰にも理解されないような気持ちを抱えながら、「ミイラ展」を楽しみにしていた絹ちゃん。

ミイラ展楽しみにしていても共感してくれる人少ないかも。

だからこそ、絹ちゃんは「孤独感」を感じていたんでしょうね。
本当は誰かにわかってほしかったけど、「普通」という枠からはみ出した自分を、社会が受け入れてくれないような気がしていたのかもしれません。
一方で、麦くんはGoogleストリートビューに自分が映っていたことに大きな喜びを感じ、それを同級生に見せて回っていました。
素敵な女性との恋も期待していたけれど、どことなく感じる「疎外感」からGoogleストリートビューに映る自分に価値を見出したのかもしれません。
どこかで「もう人生の運を使い果たしてしまったのかも」と感じてしまうくらい浮かれている。
それくらい、“自分は何者にもなれないかもしれない”というあきらめがあったのかもしれません。
絹ちゃんが感じていた「孤独」、麦くんが感じていた「疎外感」。
その正体は、「普通」という社会の価値観にどうしても馴染めない、自分たちの生きづらさだったのでしょう。
青(青春)でもなく、紫(大人)でもない。その間のあいまいで繊細な時間を二人で共有したミセスグリーンアップルの『ライラック』の記録が、映画『花束みたいな恋をした』です。
「わかる!」がつながる。共感が散りばめられた会話のシーンたち
『花束みたいな恋をした』の大きな魅力のひとつは、「そうだよね!」「わかるわかる!」と思わず声に出したくなるような、ちょっとした共感が積み重ねられているところです。
それは、普段の友だちには話しにくいようなニッチでマニアックな話題。
だけど、本当は誰かと「一緒に語り合いたい」と思っていたような小さなネタたち。
たとえば、絹ちゃんと麦くんが初めてファミレスで話すシーン。
絹ちゃん「近所に村上龍にそっくりなお父さんがいて、その奥さんが小池栄子にそっくりなんですよ!」
麦君「カンブリア宮殿じゃないですか!!」
絹ちゃんが「近所に村上龍にそっくりなお父さんがいて、その奥さんが小池栄子にそっくりなんですよ!」と語ると、麦くんはすかさず「カンブリア宮殿じゃないですか!!」と返して盛り上がります。
このやりとり、村上龍や小池栄子、カンブリア宮殿を知っている人にとっては最高にニヤける瞬間。

20歳くらいの若い人が村上龍を語っているというニッチさは貴重です。

分かる人にしか、分からない……。
特に40代前後にとって、村上龍は90年代に「すべての男は消耗品である」シリーズなどで影響力のあった作家。
テレビに出るようになってから執筆ペースが落ちたことすら、ファンの間では話題だったりします。
そんな“昔キレッキレだったおじいさん作家”を絹ちゃんが知っていて、麦くんがそれに共感してくれる——。
この一瞬に、言葉を交わすことの嬉しさと、価値観が通じ合う喜びが「花束みたいな恋をした」には詰まっています。

必ず視聴者のニッチな「好き」をどこかのシーンで提示してくれる映画です。
また、本好きにとっては背景に映る本にも目が離せません。
一瞬だけ映る小川哲の『ゲームの王国』に「えっ、ゲームの王国じゃん!」と気づいた人もいたのではないでしょうか。
この映画は、そんな“わざわざ人に話すまでもないけど、わかってくれたらうれしい”というネタがたくさん詰まっています。
それが観ている人の心を、惹きつけていく要因のひとつです。
麦君と絹ちゃんが大切にしていたのは「感受性」
『花束みたいな恋をした』のふたりに共通していたのは、「感受性」をとても大切にしていたことでした。
外の世界からのちょっとした刺激や違和感、言葉にならない美しさに、敏感に反応できる心。
それは、ただの趣味や価値観の一致よりも深いところでふたりを結びつけていたように思います。
就職活動がうまくいかない絹ちゃんに、面接官に心ないことを言われたあと、「あの人、今村夏子の『ピクニック』を読んでも何も思わないんだよ」と麦君が語るシーンがあります。
それは、ただの小説の好みの話ではなく、「あの人にはきっと人の心の繊細さが伝わらない」という、感受性の断絶を感じている瞬間でした。

みんな仕事でお金を稼ぐことに忙しくて、繊細な感受性を保てなくなっちゃいますよね
麦君も絹ちゃんもお互いの出会いのなかで同じ「感受性」で物事を捉えられることに喜びを感じます。
ふたりは、自分たちの感じる「おかしみ」や「美しさ」を分かち合えることに喜び恋愛がスタートする。
かんじゅ‐せい【感受性】
〘 名詞 〙 外界の刺激を受けとる能力。対象からの触発によって印象を受容する感性の働き。感受力。〔哲学字彙(1881)〕
[初出の実例]「三四郎は自分の感受性(カンジュセイ)が人一倍鈍いのではなからうかと疑ひ出した」(出典:三四郎(1908)〈夏目漱石〉七)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について
感受性(=外界の刺激を受け取る力)は、まさに青春の季節そのもの。
「何か面白いことないかな?」
「これからの人生、どうやって歩いていこう?」
そんなふうに、期待と不安の入り混じる季節。
世界に対して開かれたアンテナを張りながら、自分にとっての「答え」を探していく時間。
恋愛という体験は、その感受性をさらに強く刺激し、「この人となら」という思いにさせてくれます。
この「花束のような恋をした」で問題定義されているのは仕事をしていると「感受性」が欠落していくのか?ということです。
社会に出ることで、感受性は削られていく——麦君の変化と私たちの現実
麦君と絹ちゃんの間にあったのは、ただの恋愛感情ではなかったように思います。
それは、世の中の些細な出来事に心を動かせる「感受性」を共有できるかけがえのない関係。
しかし、そんな「感受性」は、「仕事」という名の社会的役割を背負うことで徐々に失っていく。
絹ちゃんの母親役である戸田恵子さんが言っていたように、
「社会って温泉みたいなものなのよ。入ってしまえば居心地がいいの」
——これは確かに一理あるように思います。
社会は私たちにルールを教え、効率性を求め、人格すら会社仕様に整えていきます。
新入社員研修のような「研修プログラム」によって、個人の感受性は「業務に差し支えのない範囲」に矯正されていきます。
就職とは、人格をつくり直すことでもあるということです。
半熟卵のように柔らかかった麦君の「感受性」は、社会に出ることで黄身までしっかり茹でられた、均質で効率的な「大人」に変化してしまった。

働いていると仕事以外の余計な感情ってない方が楽だもんね

仕事をする上で個人を仕事に最適化していくんでしょうね。
日々の疲労、仕事の理不尽、朝の満員電車、顧客からのクレーム。そうした外部刺激にいちいち感受性を発揮していたら、心がもちません。
社会では、「感じない力」こそが生き延びる術になっていくのです。
誰もが、泣きたい気持ちにならないように「感受性」を自ら弱めて働いています。
麦君と絹ちゃん。
ふたりが最初に直面する問題は「お金」と「社会規範」でした。
お金によって仕事をしなければならないということが麦君には分かっていた。
さらに「男は働いて、女は支える」という時代遅れな価値観が、麦君を押しつぶしていきます。

男は仕事で女は家庭って古くない?

麦君の実家は新潟です。共働きで生活していくことは分かってはいるものの、田舎では「男は仕事せにゃならん!」というプレッシャーはまだまだあります。
麦君が社会で「正しく」生きようとするほどに、ふたりの距離は開いていく。
感受性は、社会で生きるにはあまりにも贅沢なものだったのかなと思います。。

私は麦君と絹ちゃんはこの映画のその後にまたどこかで再開するんじゃないだろうかと考察しています。そう考えることにこの映画を見る意味があると感じるからです。
あなたの感受性は、どこにある?
それでも私は、麦君と絹ちゃんはこの映画のあと、またどこかで再会すると思っています。
それは希望というより、「そうあってほしい」という願いでもあります。
その後のことは視聴者のご想像におまかせしますスタイルだと思うから、麦君と絹ちゃんが再会して一緒になると想像します。

そうあって欲しい願望なんだ!

それが私の感受性で受けた印象から出た願望だからです。
この映画が私たちに問いかけているのは、「あなたは何を感じましたか?」ということだと思います。
それが、あなた自身の感受性。
そしてそれこそが、『花束みたいな恋をした』という物語が本当に伝えたかったものなのだと思います。
まとめ:社会に奪われる感受性と、それでも残したい心の柔らかさ
『花束みたいな恋をした』は、ただのラブストーリーではないです。
それは、「感受性を大切にしていたふたり」が、社会に適応する中でどう変わっていったか、
そして「働くこと」「生きること」がどうして心を鈍くさせるのかを描いた物語です。
麦君は社会に合わせて感受性を封じ込め、絹ちゃんはそれを手放さなかった。
その差がふたりのすれ違いを生みました。
けれど、それは彼らだけの問題ではなく、私たち誰もが日常の中で経験していることだと思います。
この映画が投げかけてくるのは「あなたの感受性はどこにありますか?」という問いかけです。
忙しさに追われる日々の中で、私たちは心の柔らかい部分を置き去りにしていないでしょうか。
「花束みたいな恋をした」という映画を見て、心のどこかに眠っていた感受性を見つけられた。
そんな人も多くいらしゃると思います。
感受性を忘れてしまいそうな日々のなかで、
それでも「心の柔らかさ」を持ち続けていたいあなたに、ぴったりの一本です。
最後までお読みくださってありがとうございました。
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